祇園祭「京の歳時記 京の夏をいろどる」

コンコンチキチン、コンチキチン・・・

日本三大祭のひとつに数えられる祇園祭は千年以上の歴史を持ち、八坂神社の祭礼として7月1日から30日まで1か月の長きににわたって多彩な祭事が行われます。街中を練り歩く豪華絢爛な山鉾巡行(やまほこじゅんこう)は祇園祭一番の見どころです。
真夏の夜をいろどる幻想的な祭事に、京都内外や海外からも多くの人が訪れます。

祇園祭にまつわる鶴屋吉信のお菓子

京の歳時記

祇園祭のはじまり

京都では平安時代にたびたび疫病が流行していました

貞観11年(869年)、現在の京都市中京区にある寺院「神泉苑」にて、当時の国と同じ数の66基の矛(ほこ)をたてて疫病退散を祈りました。この時に始まった祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれる神事が祇園祭の起源といわれています。

後年の応仁の乱や数度の大火に見舞われながらも、そのたびに復興しては室町時代から江戸時代にかけて現在のような荘厳な山鉾が形作られてきました。千年の歴史を越えた今も、夏の無病息災と平穏への祈りは受け継がれ続けています。

ひと月にわたる祭事

祭の無事を祈願する「吉符入きっぷいり」にはじまり、「お迎え提灯」「神輿洗式みこしあらいしき」、7月半ばからの「鉾建て」などを経て、宵山、前祭・後祭の山鉾巡行、神輿渡御みこしとぎょ、花傘巡行とさまざまな祭事がとりおこなわれます。そして31日、八坂神社の蘇民将来を祀る疫神社で茅の輪を設け、「夏越祭」で終わりをむかえます。

中でも前祭・後祭の宵山では、夕刻になるとたくさんの提灯を連ねた大きな「駒形提灯」に火が入り、ほのかな灯りに照らされた山鉾とともにコンコンチキチン コンチキチンと祇園囃子が流れ、祭の風情は最高潮に。

宵山

「宵山よいやま」はもともと山鉾巡行の前夜をあらわす言葉でしたが、現在では巡行の前々日から3日間にわたる“前夜祭”のような期間をさしており、堂々と組み上がった山鉾を間近でじっくり鑑賞できるだけでなく、巡行の際に山鉾に取り付けられる豪華な装飾品やご神体、屏風といった美術品を見ることもできます。

きらびやかな西陣織、中国やペルシャの絨毯、ベルギーのタペストリーなど16〜18世紀頃の貴重な品々はまさに重要文化財クラス。
山鉾が「動く美術館」と呼ばれるゆえんでもあります。

山鉾ごとの粽ちまき、手ぬぐいや扇子、お守りなどの授与品のほか近年では御朱印の授与などの新しい楽しみ方が生まれています。

ご巡行

祇園祭と言えば、荘厳な「山鉾巡行やまほこじゅんこう」がまず思い浮かばれるのではないでしょうか。
京都の町中では7月なかばから2週間ほどかけて山鉾の組み上げが行われます。

山鉾というのは山車だしの一種で、人形などをのせた比較的小さいものが「山」、稚児や何十人もの囃子方が乗り込む大型のものが「鉾」と呼ばれています。
33基ある山鉾は和漢の故事や神話などを由来とする趣向をこらした装飾で飾られ、国の重要有形民俗文化財にも選定されています。

たくさんの見物客が見守る中、山鉾は決められた順路をゆっくりと練り歩いた後それぞれの町内へと戻ってゆき、集めた疫神をふたたび四散させないようにその場ですぐに解体・収納され、その年の役目を終えるのです。

“蘇民将来(そみんしょうらい)”の伝説

八坂神社のご祭神、スサノヲノミコトにまつわる伝説に由来する「蘇民将来」の護符。神代の昔、スサノヲノミコトが南海に旅をされ難儀にみまわれた時、その地に住む蘇民将来という人物に食事で手厚くもてなされました。

この真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、蘇民の子孫を末代まで護る約束の目印として「茅の輪」をつけるように、さらに疫病流行の際「蘇民将来子孫也そみんしょうらいのしそんなり」と記した護符を持つ者は、厄災や疫病から逃れることができると約束してゆきました。

その言葉にならって、蘇民将来の家は長きにわたり繁栄したというものです。

その故事にちなんで、毎年6月30日の厄祓い神事「夏越なごしの祓はらい」では大きな茅の輪をくぐる儀式が。

また祇園祭の各山鉾では「粽ちまき」が販売されますが、これは食べ物ではなく笹の葉を巻いて束ねたお守りです。この粽に 「蘇民将来子孫也」の護符がつけられており、京都の人々はこの粽を玄関に吊るして、家族の厄よけを願います。

鶴屋吉信の銘菓「こんちきちん」につけられた赤い札にも、同じ文字がしたためられております。